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受験うかってオタクしてます

ええなぁこれ 今年のYouTube

文章を書くというのは自分の中でいろいろ整理できることなのですが、この1年間どうしても整理しておきたかったことがあるのでここでやります。

 

「今年YouTubeでみた動画でええなぁと思ったものをまとめる」

です。

なんとなくジャンル分けしてます。

 

◎アイドル

・学園天国 松浦亜弥

- YouTube

全然音楽に対して私素人だけど、歌が上手すぎるし学園天国にめっちゃ合ってる。しかも可愛い。後ろにいる大御所に全く負けてない。尾崎紀世彦さんがニコニコされてるのをみてさらにニコニコしちゃう。


・デビュー前ハロコン 松浦亜弥

松浦亜弥 - 100回のKISS - YouTube

リハなし初舞台でこれができる度胸が天才。デビュー前なのに表情管理できてる。

中3で紅白に立ったこともすごいし、その時はよりアイドルになっていてソロでもうこんなアイドル出てこない気がする。あややは天才

 

◎音楽

CHAGE&ASKA LOVE SONG

[MV] LOVE SONG ('92 Ver.) / CHAGE and ASKA - YouTube

ASKA玉置浩二の尾を引いたようら歌い方が苦手やから避けてたけど、たまたまカバーで聴いてええ曲やなあと思った。全然古臭くなくて好き。


斉藤和義 空に星が綺麗

斉藤和義 空に星が綺麗 - YouTube

コマンダンテの出囃子で知ってから大好きな曲。何気なく元気が出てくる。誰も悪くはないさ。きっとそういうもんさ。で安心する。

 

おジャ魔女カーニバル 

[高音質]おジャ魔女カーニバル 5人Ver. - YouTube

意味わからんぐらい楽しい曲。子供向けアニソンやのに、サビで短調?になるのヤバい。私ギリギリおジャ魔女見てないねんけど、これ聞く度に童心に戻れる最高。


・Akdong musician Give Love

악동뮤지션(Akdong Musician) [Give love (사랑을 주세요)] @KPOPSTAR Season 2 - YouTube

今はAKMUとして、キャリアを重ねる彼らがまさに「見つかった」瞬間。言葉もわからないけど、こんないい声と音楽があるんだとみんなが思う。


銀杏BOYZ カバー 援助交際

援助交際/銀杏BOYZ - YouTube

このサブカルを濃縮したようなカバーがやっぱり好きなんだろうなと。「あの娘を幸せにするためだけに ぁあ僕は生まれてきたの」と純すぎる愛を歌う峯田。

 

◎日常
Tweety Q&A

Q&A🔮 남편직업ㅣ얼굴가리는이유ㅣ부부싸움ㅣ돈관리ㅣ탈모 커밍아웃ㅣ결혼전 동거이유ㅣ건강상태 - YouTube

3年前から大好きな韓国のYouTuberさん。すごく可愛いだけじゃなくて、脱毛症・嘔吐など健康について苦労されてきた方。旦那さんが彼氏の時から、支え合ってきたことを知ってたけどこの動画でさらに2人の関係性やTweetyさん自身の強さ、優しさに触れて思わず泣いてしまった。日本語字幕あり。

 

・とやまソフトセンター 狂犬病予防注射会

2022狂犬病予防注射会場 ドタバタ劇 其の4・射水市前編 - YouTube

予防注射にくるワンちゃん達をとったシリーズ。どれもめちゃくちゃよくて大好きだけど、この会はしば犬率高めで良い。若い頃のふうとそっくりな子がいて懐かしい気持ちになる。

 

・ファシリティドッグ ヨギ 引退

病院で働く犬のヨギが9年間の活動を終え引退しました。入院中の子どもたちを笑顔にしたヨギのおはなし - YouTube

学が浅くて申し訳ないが、ファシリティドッグの存在をこれで知った。

 

◎お笑い
Yoshimoto Shinkigeki (English Subtitles) - よしもと新喜劇(英語字幕)

- YouTube

関西の日曜昼は絶対新喜劇やったなあ〜やっぱしげぞういる回はリアルタイムで見てたし、今見ても一番おもしろい。もう一回座長やってくれへんかな〜。脇役たちもびっくりするぐらい豪華。

 

・poisongirlband「巨人」

POISON GIRL BAND 漫才 巨人 - YouTube

ポイズンを好きな人が周りにいないのですが、ラジオ感覚で聴ける漫才なのよポイズンって。いい意味で。人のめっちゃ面白い会話を横で盗み聞きしているような気がする。


粗品VS松尾 にらめっこ対決

粗品VS松尾 にらめっこ対決 - YouTube

世の中で1番シンプルで、くだらない笑いです。そしてめちゃくちゃ面白くていつも死にそうになります。

 

◎その他

・Charles & Diana Wedding in 4K | Part 3 | after the ceremony | 1981

Charles & Diana Wedding in 4K | Part 3 | after the ceremony | 1981 - YouTube

綺麗だなという言葉しか出ない。顔や美しさで評価する時代は終わったと思うが、この人をみて歴史の中の芸術品をまた気持ちになる。いろんな憶測や裏側があったかもしれないが、こんな方を失ってしまったのは大きいなと思う。

 

九州新幹線 全線開通CM

https://youtu.be/UNbJzCFgjnU

優しいCM。綺麗な映像、豪華な俳優さんがでてくるわけじゃないからこそ、人のための広告だと思う。ただ手を振る映像で泣けちゃう。

私の今年のベストYouTube

 

自己満ですがお付き合いありがとうござした!

今年は家族が亡くなり、自分の中でいろんな喪失感と闘う日々でした。

何気ない日常が尊いと常に思っておりますが、それを手に入れ、それに気がつくのは何よりも難しいのかもしれません。

 

私は気がつけていると思います。

意味わからんくらいええ人に囲まれてるなぁと感じてます。

 

あざした!!!

 

 

 

 

 

星になんかならなくていい

8歳の頃から飼っていた柴犬のふうが3日前息を引き取った。

 

耳があまり聞こえず、目も見えず、認知症だった彼女の介護が両親だけでは厳しいこともあったので、今年実家に戻ると決めた。(他にも理由はあるけどこれが8割くらいの理由で)

 

昨年の11月にふうを不安にさせた脱走事件もあり、不安にさせた責任をなんとかはらしたかった。

 

ふうが弱っていってることは家族全員感じていて、この1年で何度病院にお世話になったのか。

もし自力で食べる気がなくなり寝たきりになった場合、お医者さんは安楽死も提案してくれた。もちろんそれは犬にとって正当性のあることだとわかってる。

ただ、犬を飼うということは人間のエゴであるからこそ、最後までそのエゴを責任として持つべきだと思った。

ふうが生きる気力を自分で無くすまでは何でもしようと家に残る母と父と約束した。

 

そして就活が一通り終わったタイミングで実家に戻った矢先、ふうは発作を起こして夜に病院のお世話になった。

こういうことが起こると脳へのダメージが強く、認知症などが加速することをお医者さんから伝えられ、寝たきりになる可能性もあった。落ち着いたので家につれて帰れたけれど、もうダメだと家族全員思った。

 

だけどそこからのふうの生命力は凄かった。

倒れて3日目には、水を飲み、1週間くらいでちゅーるを混ぜた固形物が食べられるようになった。それと同時に鳴きながらも自分で立ち、歩くようになった。

上がらなかった首がリセットされたように上がって前より歩いてる時にこけなくなった。

 

まだまだ生きるなんてことをふうは思ってすらいないかもしれないが、私を含めた家族はまだまだサポートできるんだと思った。

 

 

 

ふうは、2005年、生まれて3ヶ月で我が家に来た。

その当時両親は、同居していた父方の祖母の認知症防止に犬を飼うことを検討していて、パグか柴犬かに狙いを定めてよくペットショップなどに私達娘を含めて見に行っていた。

(なぜパグか柴犬だったかはあまり覚えていないが、初めて飼うのに迎えやすい中型犬を探していた気はする)

 

11月、たしか3日とかだった。

母方の祖母の家に遊びに来て、テレビを見たくてなかなか帰らない私たちに母が「帰ったらいいものがあるよ」といったのを聞き逃さず母を問い詰めた。

プレゼント?おもちゃ?「さぁ〜」といってはぐらかす母に犬?と言ったら黙った。そのあとすぐにはぐらかされたけど、姉妹全員犬だと気づいてすぐに帰りを促した。

帰りの道中、栗色の柴犬だということがわかって、マロン?とか名前の候補を挙げたけど、母がぽろっとつぶやいた「ふうは?」に犬の姿も見てないのに納得し満場一致で名前が決まった。

 

初めて抱っこしたふうは、当時小学2年生の私が組んだ手に乗るくらい小さく細くて今にも落っことしそうだった。

 

もうそれ以降の小さい時の記憶は断片的なことしか覚えていない。

 

初めて抱っこ散歩(幼犬は外の世界に慣れてないのでまずは抱っこで散歩して慣れさす必要がある)した時、ふうを私の不注意で落としてしまって、びっくりするぐらい震えていたこと。

 

初めてちゃんとリードをつけて散歩した日は雪が降っていたこと。

 

小学校から帰ってくると、トイレの覚えていないふうがおしっこをあちらこちらにしていたこと。

 

登校前にふうを散歩させていたら、リードが外れて脱走したのに捕まえられなくて、泣きながら親に報告し登校したら、バイクに2ケツした両親がふうを抱えながら捕まえたよー!と登校中のさなに教えてくれたこと。

 

…小学校だけでもエピソードがありすぎる。そしてめちゃくちゃ覚えていた。

 

中学高校はふうに1番申し訳なく反省している。部活があったり、友達と遊ぶことが優先だったり、私よがりな理由で散歩をしっかりしてあげないこともよくあった。この時あまりふうと遊べた記憶もない。

綺麗事を言うと、中学高校になると「当たり前」だと何も信じて疑わなかった。

ごめん。1番元気で遊びたい時間を忘れてしまってごめん。

罪滅ぼしのように、浪人した1年間は朝毎日30分散歩にいき、夜もできるだけ散歩したな。

 

大学生になり、一人暮らしをするとふうに会える機会が少なくなって、「当たり前」ではないことを知った。

 

ふうが12歳の時、ふうの体調が良くないことをたまたま家に来ていたおばさんが気付きそのまま病院につれていくと病気だと判明した時、

「家族なのに何も気づけなかった。そしてふうは実はもうおばあちゃんで、死ぬことだってあるかも知れない。」

という悔しさと不安に襲われた。

それまで病気などしたことがなく、もうめちゃくちゃに健康すぎるくらいのふうの栗色の毛並みは、昔の写真と比べて色が薄くなっていることにもその時気づいた。

当たり前すぎる小さな存在がいなくなることがあるんだとはっきり気がついて泣いたことを覚えている。

 

そこからふうのために動くことを厭わなくなった。

 

 

 

去年亡くなった祖母を見て、「人は死ぬタイミングを選んでいる」と思った。

犬だってそうだとふうを見て思った。

ふうがなくなる前日に姉が帰省していたこと。ふうが危篤の知らせを受けた妹が乗る終電が着くまで、生きることを諦めないでいてくれたこと。

頑張ってくれてありがとう。

16年と11ヶ月。頑張りすぎたねちょっと。

 

老犬介護は甘いモノじゃない。排泄や食事の世話、夜うまく立たなくて鳴くので近所から迷惑だと手紙も来ていた。迷惑なのはその通りだと思うし、私たちも鳴き声に起きて、世話をしていたので寝不足だった。

でも嫌じゃなかった。不満もなかった。自分から選んだことだったし、眠たいなぁぐらいの感想だけだった。

だけどそれぐらいの覚悟や諦めそして、諸々にかかるお金がないと動物は飼うべきじゃないことを老犬介護を通して知った。

 

老いて弱っていく姿を見ていたので、実家に帰る前に想像していた死の辛さより遥かに辛くない。

ただ家に帰ってもいないこと、日中鳴かないことを思うと涙が出てくる。ただ寂しい。

 

虹の橋をわたっただの、星になっただの綺麗な言い方なんてしたくない。

星にならなくていい。

ただ側で温かい背中や頭を撫でていたい。

 

 

我が家に来てくれて、

ここまで生きてくれてありがとう。

本当にふうはすごいと思う。

よく生きたと思う。

がんばったね。

がんばった。

ありがとう。

本当にありがとう。

 

会えないかも知れないけど、また会えたらいっぱい遊ぼう。いっぱいおいしいご飯食べよう。

 

大好きだよー!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年

久しぶりに文章かくわ。

 

今年は生と死に向き合う時間が沢山あり、いろんなことを考えました。

そんな時間になったことを書きます。

主に、実家で飼ってる犬(ふうちゃん、柴犬、16歳)と、母方の祖母のことです。

 

3月

犬が突発性前庭障害になる。

 

老犬にはよくあることみたいですが、三半規管が狂って上手く歩けなくなる病気です。

妹も就職前でギリギリ実家にいたことと、コロナもあり親が頻繁にいたことが幸いして介護に注力できたと思った。

 

薬を飲んで今は完治だけど、ここから明らかに歩くことや、立ち上がることが一苦労になって衰えを感じるようなり、認知症も進んだ気がする。

仕方ないけど。

 

犬の認知症は人間と同じで、徘徊したりご飯食べたの忘れたり。もう目も耳もほとんど使えないので、余計しんどいと思う。

何より犬自身が今までの自分の体の動かし方と違うので戸惑って不安だったんだろうな。

 

10月 ばあちゃんが帰ってくる。

 

ばあちゃんが6月に2回目の脳梗塞で入院。

1回目は私が高校生の時やって元気が有り余って帰ってきたのですが、今回はそうはいかなかった。コロナで対面もできず、会うたびに弱るばあちゃんを見ていた。

病院の対応も不満なところがあり、じいちゃんがばあちゃんを家に戻らせて介護することになりました。

(病院の方も出来る範囲でやってくださったと思うんですが、ばあちゃんに合った病院じゃなかっただけだと思っている)

 

ばあちゃんじいちゃんと同棲してる従兄弟家族、特に従兄弟のお母さんが介護に注力してくれはった。

出来る限り毎週末とばあちゃんに会いに行って、会話が出来ることもあったし、文句をいういつもばあちゃんで安心していたけれど、10月後半にはかなり食べなくなり、病院の先生との話し合いで「終末期」だと伝えられ、なんとなく分かっていたけれど現実を突きつけられました。

 

そんな時に、ばあちゃんが「私は幸せもんや」と口に出して言ってくれた。

 

その場にいたみんな涙目になったよ。

聞けてよかった。

それを聞けたみんなも幸せやったよ。

 

11月

11/6

東京にいる従兄弟も姉も妹も含めて全員集まってばあちゃんに会いました。

元々集まってくることをばあちゃんにはずっと伝えてました。辛い治療の中、「早く楽になりたい」というばあちゃんに頑張って欲しかった。

 

幸いなことに、最後まで全員の顔と名前をばあちゃんは覚えていて、全員で集合写真撮ったり、沢山話しました。

 

ばあちゃんにまたくるわといって、ご飯を食べて家に帰ったとき大体2時間後くらい。

 

ばあちゃんが死んだと連絡が来ました。

 

最後の方は息が上がり、とにかくしんどそうにしていたのをみて人工呼吸器や、お医者さんを呼んだりしてバタバタしてたみたいですが、その場にいた家族には看取られたみたいでよかったです。

 

それから3日間ほどかけてばあちゃんとほんとのさよならをした。

 

最後に全員にあうまで頑張ってくれたばあちゃん。

 

めちゃくちゃ強くて優しくて、めちゃくちゃおもろいひとやった。

 

料理が上手で、唐揚げや白菜のたいたんはいつもたくさん作ってくれた。

スキーも小さい頃沢山連れてってくれて、大阪や奈良の寺は基本ばあちゃんとじいちゃんとの思い出。

いつも大阪で、毎回食べきれないのに551行くから、余った餃子をティッシュに包む恒例行事あったの思い出した。

 

思い出はきりないけど、とにかく最後にばあちゃんに会えてよかった。

頑張ってくれてありがとう。

じいちゃんはみんなで支えるので、寂しいと思うけどこっちのことは気にせず過ごしてほしい。

 

11/10

葬式が終わって仕事がある組は全員帰った次の朝。

 

犬が脱走しました。

 

元々、基本外で飼っていて、散歩終わったら家に入れていて寝る時だけ排泄のこともあり、外に出してました。

散歩の際に、外の扉を閉め忘れていたみたいで、私が起きた9時ごろどこを探してもふうがいなかった。

 

そんなに遠くに行けないこともわかっていたから近所を何周もして、とにかく探した。

 

もう認知症で家に自力で戻ってくることも出来ないし、目見えてないから近所の川に落ちて流されていたらと思うと恐怖で涙が止まらなかった。

 

身体的にも精神的にもかなりボロボロになっていて、電話をした母さんの帰りを待っていた時。

 

川の向こうから喚き叫ぶ犬の鳴き声が聞こえ、走って川の向こう見たら、叫ぶうちの犬らしき柴を抱えている女性2人。

 

声をかけるとふうでした。

 

どうやら朝の5時ぐらいに川に落ちて、流されてずっと鳴いていたみたいで消防まで使って助けてくださり、さらに川の泥で汚れているふうを洗って拭き、警察に届け、足の裏が少し血が出ていたので病院に連れて行くところで私と出会えたみたいでした。

 

ふうに会えた安心と恐怖からの解放で涙が止まらなかった。

助けてくださった方は、元々犬を飼っていたみたいで、私が泣いていた時ずっとふうに声かけや、わたしにも気を遣ってくださりとにかく感謝してもしきれません。

 

丁度お母さんが帰ってきて、2人でふうを助けてくださったお礼をし、そのまま病院へ向かいました。

 

道中、ふうはおそらく恐怖でとにかく泣き叫ぶので、大丈夫大丈夫と声かけながらゆっくり撫でて次第に落ち着いてきたけど、私と母はふうにそんな気持ちにさせた反省ととにかく恐怖から解放された安堵で終始泣いていました。

 

少し爪が削れてた程度で、怪我はありませんでした。

 

 

もうこれ以上の怖いことは無いと思う。

とにかく反省したし、あの時から不安感を感じるようになったのか夜よく叫ぶようになったので今は日中も家の中で過ごさせています。

 

葬式中相手にできなかったことが寂しかったのかもしれない。

「私を忘れないで」と言ってくれたと思う。

葬式の後だからこそ余計に「もう誰もいなくならないでほしい」と強く思っていた分、ふうがいなくなる恐怖で体が震えて仕方なかったです。

今でも、この文章を書いていても、涙がでてくる。

それぐらい申し訳ないことをした。

出来るだけ実家に帰り、ふうが少しでも安心して過ごせるようにしたい。

 

 

 

とにかくいろいろあった。

これを書く時、涙が止まらなくてちゃんと文章になった気がしない。

 

人は生きてれば死ぬ。

でも本当に忘れなければずっと一緒に生きてる。

 

お母さんの唐揚げはばあちゃんの唐揚げであるように、ばあちゃんの作った何かは母や私や皆の中にあって、ばあちゃんはいなくなったなわけじゃない。

 

ばあちゃんから貰ったもので出来てる自分や、皆を大切にすることでばあちゃんに恩返しできる。そう思ってる。

 

そして、今生きる家族をより大事にすることは今の私の課題だと思う。

 

ふうもうちょっと元気でいてくれ。

私のわがままだけどまだ少し心の準備が追いついていないんや〜。ごめんよ。

 

 

もちろん今年は楽しいこともたくさんいろんなことがあった。

ばあちゃんのことを知って支えてくれた人にとにかく感謝している。

 

とにかく考えさせられる1年だった。

 

 

 

2020前半の気づき

2020も半年をきりました(信じられない)

特にこの4月からの3ヶ月でおうち大好きにんげんになれて、生活様式変わりスギィ。

 

まず3食自炊してるのよね。

元から大学生にしては自炊するほうだったけど、授業が減った3年生はリズムが作れずにバイトの賄いだったり、買い食い程度の最低限の食事だったりが多くなってしまっていたのでこんなにきっちり自炊リズムができて、それがきっかけで痩せれたのもデカいな。

 

1週間の最低限の買い物をネットで近所のスーパーのチラシを見て決めて、はしごするような日々いままでなかった。

 

時間ができた。

2月にKooBeeの山が終わって、4月に引退して、とにかくサークル漬けの3年間が終わって、時間ができた。

 

家はきれいになったし、自炊はできるようになった。

自分のメンタルと向き合う時間が増えたのがしんどかった。

 

どうせ私は一般入試でしか院試受からないと思っていたので、4月から教科書をまとめ始めて、4月専門、5月数学という感じで教科書をまとめながら問題解くような感じだった。4月はまだTOEICがある予定だったので勉強していた。

 

とにかく孤独を感じていて、学校にも行けない、バイトにも行けない、友達に会えない、人と喋るのがスーパーの「ありがとうございます」だけ。天気がよかったのに外にも行かなかった。

 

受験勉強なんてそんなもんだし、浪人してたからこんな気持ちになるなんて久しぶりだと思っていた。

経験したからわかっていたのだが、こうなるとどんどん気持ちは尖ってくる。いわば自分本位になってくるわけだ。

「私はこんなきもちなのに」「私はこう思っているのに」と人に勝手に自分の気持ちをわかってもらえると期待して、わかってもらえなかったとき勝手に裏切られた気持ちになる。

全部自分本位で自分勝手だ。

人が人の気持ちをわかるには、人はその目で相手を見る必要がある。

互いの心を知ることは業務連絡ではない。直接(今はzoomとかもあるしそれでもいい)相手の姿を見て相手がどんな表情、トーン、喋る速さでそれを話すか結構大事だ。

LINEという便利ツールには、その能力はない。

ちなみにTwitterにもない。140字で私の全てが伝わるわけなんかない。

逆に言えば140字で「上手く」言うことがTwitterの面白さだと思う。よく、一つのことに対して言いたいことが多くてリプ欄にどんどんツイートを重ねていくやつを私はTwitterの崩壊と呼んでいる。そんな長文を伝えるツールはTwitterじゃないのだ。あとそんな狭い世界で話したことは本当にすぐ消える。

 

少し脱線したが、そうやって人と話すことが無くなると、自分の意見でしかモノを選べなくなることを私は知っていた。

(Twitterにやばい奴が多いのもその一つだと思う)

 

 

 

 

そんな折に、好きな人と喧嘩?した。

内容は割愛するけれど、裏切られたと思った。

会社の同僚と会えている人と、誰とも喋らず勉強している人だと世界が違う。そのことを私はわかってくれていると思っていた。

そう思っていた。

そして私は自分の世界が今狭すぎることに気がついた。

にわかに人と自分の生活を比べている自分に気持ち悪さすら感じた。

 

喧嘩の内容は信頼関係を潰すようなことだったので、次は許すことはできないが、喧嘩したこと自体がショックだったわけではない。

このメンタルの時に、自分の置かれている環境をまざまざ見せつけられたことがキツかった。

 

それがきっかけで私は外に出るようになった。人と話すことはこの社会情勢の上は制限されるが、1人で散歩程度なら外に出ても誰にも迷惑はかけない。

 

散歩するようになっていろんなことに気がついた。

みんなの買い物の中身とか、景色のきれいさとか、世界に自分1人しかいないのは家だけだと改めて気がついた。

 

外が好きになったのと同時に家もめちゃくちゃ好きになった。HSPぎみなので、ずっと外にいるとめちゃくちゃ疲れやすいから家をどう快適にするかに力を入れて、植物もお茶の種類も増やして落ち着ける家を作っておうち大好きにんげんになった。

 

いろんなことに気がついてすっごい成長した気がする。

 

4月にちんぷんかんぷんだった英語の論文も、単語を理解することができるようになって読むスピードがあがった。

読んでて分からないことを解決できるまで調べてから先生に確認するようになった。

なんとなくいろんなことがわかるようになった。

 

元々大事だったモノをもっと大切にしたり、新しい推しに出会ったり、癒しが増えた。

 

まだ直っていないのは勉強への自信の無さだ。

 

でもこれを書いていて気がついた。

 

時間はかかるかもしれないけれど、いろんな世界に出会って、いつか直ると思う。

どうしてこんなに自分はできないんだろうとずっと落ち込まないでもいいかもしれない。

それは明日かもしれないし、もっと先かもしれない。

 

焦らず気づいていこう。

 

 

 

 

 

高校生のメモ①

iPhoneのメモを漁っていると、消せなかった小説?エッセイ?よくわからない文章を見つけたのでもうここで埋葬しておきます。

多分こんな気持ちには一生ならないと思うので。

 

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得体の知れない何かが私の中を覆っていた。

 

不安とかおごりとかもう何が何なのか分からなかった。

 

でも受験が嫌だ。

それが一番なのはわかった。

 

勉強は嫌いではなかった。

ただ勉強のために、テストのために自分の好きなものを我慢しなければいけないことが納得できなかった。

受験を早々に終わらした友達は皆、好きなところに遊びに行っている。好きなことをし、大学への余暇を楽しんでいる。他人を見ているからダメなんだと言われてそんな事を気にしないように努力した。

 

だけど私は病んだ。

そして結局自分なのだと実感する。

 

他人の受験が終わろうが終わらまいが私の受験は続く。他人が遊んでようが楽しんでようが私の受験は続く。それはもう決定事項だった。避けては通れないものだった。

みんなが応援してくれるからやっているだけだ。貴方ならいけると期待してくれているのは裏切れなかった。

 

そしてそれでも私は楽しい事に逃げたかった。

 

同じ学校でこんな事を理解してくれる人なんていない。皆目標に向かってひたむきに勉強している。

そんな友達達と自分では頑張りの価値が違った。

未来への欲が違った。

私は今を生きていればいいと思っていた。

 

周りは浅はかで甘い考えだと言う。

当の本人である私でさえ、何故こんな考えしか出来ないのかと思ってしまう。

 

それでも私は、

それでも私は、

何かと戦うことを強く拒んだ。

 

好きなものを見ている時は気が安らいだが、それは最初だけだった。好きなものはいつしか今楽しめないと後悔の思いに駆られるようになった。それは好きなことをして遊んでいるやつを見れば見るほど、想像すればするほど膨らんだ。

 

 

 

気がつけばだらりと勉強して夕方になっていた。ずっと席に座っていた事でお尻が多少の悲鳴をあげる。

 

岩のように固まった腰を上げると尿意を感じた。そういえばお昼にもトイレのために外には出ていない。

 

ちょうど良い。

お母さんの古いブランド物のジャケットを羽織り真っ白のスヌードを巻き外に出る。

短い水しぶきが頬にあたった。

 

雨だ。

 

あいにく傘を持って出なかった。

大丈夫だ、これぐらいの雨ならと思って私は歩き出した。本当についさっき降り出したみたいで皆傘をさしていない。フードを被り小走りする家族が見えた。私は傘もささずゆっくりと歩いていた。途中、白いスポーツカーが私の隣を通るときだけゆっくりと減速していたのは傘もささずフードも被らずまるで雨が降っていないかのように振る舞う私を不思議に思って観察していたのだろうか。

 

どうやって帰ろうと思案し悩む人たちが入り口にはたむろしていたが、押しのけて中へはいる。

入り口付近のトイレは満室だったから一つ上の大きな静かなトイレに向かった、建物の端にありあまり使用感がなく私が一番好きな場所だった。

 

いつも端から2番目の1人用に入る。

 

何故かそこを選んでしまう。

ドアが重く閉めるのにいちいち時間をとるが一度そこに入るとなんとも心地がよかった。

さっき私とトイレの入り口ですれ違った白いブラウスの女の人の匂いだろうか。凡人には出せない甘く、それでいて嫌気のない花の匂いがした。トイレの消臭剤ではない心地の良い花畑があった。

トイレを済まして外に出ると雨がもうポツリとおさまっていた。

 

ふと私は自分の中で重くのしかかった黒い鉄の重りが、軽い発泡スチロールで出来た重りに変わったかのように軽くなっていたことに気がついた。

 

でもまだ色は黒い。

 

外に出たから?

雨に打たれたから?

トイレにいったから?

そして白いブラウスの女が纏った花の匂いのするトイレで用を足したから?

 

理由は考えてもわからない。

これからずっと考え続けてもわからないだろう、そんな気がして考えることをやめた。

 

私を覆っていた暗い空はゆっくりと薄くなっていった。

 

 

今の私は午前中の私より少しだけ頑張れるだろうな。

気持ちの整理

今回の話は残して何になるのかわかりませんし、共感がほしいわけではありません。もう終わったことなので心配もいらないし、私個人の話なので「自分も」みたいな気持ちになって欲しくないです。(特に後輩には)

これを読んで、何かに生かしてくれたらいいとは思いますが生かせる内容かもわかりません。

 

ただこれを書かないと、あの時の自分の気持ちは成仏できないなと思っていました。

サークルとして綺麗に区切りをつけれていたらこんな気持ちもとっくに成仏してたんじゃないかな。

 

 

 

 

暗黒期みたいなものは2回大きなものがあって、その2回は自分で原因が分かっていても、気持ちの整理がつかなくて、あの時どーすればよかったかがうまく話せません。

 

1回目は、

・レポート、ESとパワポ、面接、表紙コンペで自分のタスクの山がひと段落し、緊張の糸が途切れた

・就活への不安

・自分のタスクをしながら舞い込むKooBee の仕事と問題

・積極的でない人と自分のギャップ

で結果的に自分の自信がなくなり、タスクがあっても何もできない状態になりました。

最低限の返事しかできなくて、LINEは既読無視してしまうような感じでした。

本当は全てのタスクから逃げたかったけどそんな風にもいかんので最低限の連絡は返すように。1週間だけですが、役会LINEからも抜けました。

 

逃げるのがよしっていうわけではないけど、この時「にげる」という術がまだ使えていたから、1週間程度で頑張るスイッチに切り替えられた気がします。

 

後輩には辛かったら逃げてもいいよと言ったんですけど、「やりっぱなし」で逃げるのはお勧めしない。自分の中で、最低限でいいので、これで終わる!って思って逃げた方がいいです。

 

このときは1週間くらいで持ち直して、なんならやる気が前以上になってて今振り返れば軽い病みだった気がします。喉元過ぎれば熱さも忘れるかもしれませんが。

 

2回目は、学校行くぐらいから「あこれダメな日かもしれない」とおもって、ミーティング終わりに「あこれやっぱダメだ」となって実家に帰りました。この時の「ダメな日かも」という予感はあんまりよくわからないけど、暗闇のようなものがヒタヒタ近づいてくる感じかな〜説明できないな。

 

実家に帰る途中、電車が人身事故で止まって、時間の都合上0時近くにしか最寄りにつかないことがわかり、母親に連絡し終えた後、安心したのか涙が止まらなくなって、ずっと震えてた気がします。こんなヤベェやつ絶対怖いのでめちゃくちゃ我慢して最寄り駅まで帰りました。

 

最寄りについたら迎えにきてくれてて、車に乗ってお母さんを見た瞬間、大泣きしました。

 

抱えていた感じなくていいプレッシャーと、将来への不安と、無くならない仕事の山と、次の週に待ち構えてる実習とかいろんなタスクに完全に潰れてしまいました。もうしんどくてしんどくて、でもなにがしんどいか分からなくて、心がすべてぺしゃんこになっていた気がします。

 

この時、「しんどいって泣いてなにが変わるんだろう」とという絶望感にも潰されていました。

泣いたところで仕事は無くならない、しんどいと言ったところで代わってくれる人はいない。私がしてほしいのは自分の仕事が少なくなることではなく、ゼロになることだったので終わらない限りずっとこのままやと思いました。そしてこんなことを考えている自分の精神の浅さに落ち込みました。

 

今考えればね、そんなことはなくて。しんどいといえば助けてくれる人がたくさんいるんだよ。

 

その時の私は、その存在すら信じられないぐらい追い詰められていたんだと思います。その存在にとって私は迷惑だと考え、相談しても迷惑っていう気持ちでした。

 

家族と会って、1日だけ落ち着いて生活をして、また自分のやらなきゃいけないことと向き合うようになりました。流れに身を任せていく方が上手くいくと思って、落ち込みも上がりもせず、睡眠不足も重なって、無感情で進めれたことが救いでした。入稿までとにかくいろんなことがあって、後輩のことも正直心にきましたがすぐに力を貸してくれた人がいて感謝してもしきれません。

1番ではないけれど、入稿がプレッシャーではあったのでそれが終わってからは少し楽になったように思えます。

 

入稿後も信用できない人の存在で、狂わされたことがありましたが、深夜に話を聞いてくれた同期や、怒りを聞いてくれた後輩達本当にありがとう。

元気出して〜って言われてもらったからあげくんめちゃくちゃ美味しかった。

 

今はその状態からは完全に抜けています。冒頭でも話したようにこんな風にならないでほしいという気持ちがあります。

だからこそ明確な解決方法を話せたらいいけど、流れに任せていたのでどう解決したかあまり覚えがなくてすみません。 

 

経験して思ったのは「自分の気持ちも分からないなら、人の気持ちを心配するな」ということです。

 

私は共感性羞恥をもつ人間です。

共感性羞恥とは「人がが怒られたり恥をかくような場面を見た時に、まるで自分が怒られたり恥をかいているように感じてしまう事」を言います。

日常生活でいうと、

・誰かがスベるところを見られない

・そういう場面が必ずというほどでてくるテレビが長時間見れない

とかそういうのです。

 

人の感情に対して敏感で、それを自分の感情と区別しにくく、苦しいのでそれを避けるための行動ばかりしてきました。

 

その結果、誰かがしんどくなるのを見る前に自分が傷つけられればいいと思うようになり、過度のしんどさを招いた一因だと思っています。

共感性羞恥の人が必ずしもそうなるわけではなく、私はそうだったという話です。

 

この性格に気がついたのは22歳になってからでした。自分の性格に名前があると、人に説明もできるし、不要な場面を避けられるようになりました。HSPに当てはまることもあるのですが、これほど繊細では無いと思います。(周囲の刺激に敏感「HSC」「HSP」|ますみゆたか/真澄悠貴|note)

 

でそんな奴が人の心配を100%しても意味がないという諦めを手にすることができました。人の心配をすればするほど自分の心が死ぬことに気がついたのです。「自分のできる限りで相手のために動こう、それで無理なら諦めも大事」と、今までは「それで無理なら私のせいだ」と思っていた気持ちがなくなりました。

 

またこういうのがきた時、前よりは上手く対処できると思っています。こないように頑張ります。

 

誤解のないよういいますが、サークルに入って大きなタスクをたくさんやったことは何一つ後悔していません。投げたくなったことはあるけど、サークルが嫌いだと思ってません。入ってよかったと思っています。

 

あの時本当にどん底だと思っていた自分が、あの時腐らなかったことだけは本当に偉かったと思います。

 

役に立たない文章ここまで読んでくれた方いるのかな。

 

あの時の気持ちにやっと整理つけれたと思います。

 

ありがとうございました。

 

 

KooBee vol11 刊行に際して

 

 

ちくしょーめ〜ころなめ〜とひたすら恨んでも仕方ないのはわかっていますが、普通に配って、普通に新歓祭してっていうのが羨ましくて本当に悔しいのは忘れられません。

 

新学期がようやくはじまるので、KooBee 2020 vol.11を振り返っていきます。

 

まず表紙めっちゃよくないですか???

今までのKooBeeとまた違った風が吹いた気がします。

みんなが最初に手にした時のワクワクが詰め込まれている表紙だと思います。

自分の表紙のことはブログで詳しく書いたので割愛です。ひとつひとつの細かいこだわりを愛してほしい表紙です。

 

特集は今年のインタビュー激アツじゃないでしょうか!!!もちろんまにまにご意見番など企画ページのとこもクスッと笑える編集のクセがでてるいいページばかりです。締め切り云々で怒ってましたが笑、編集の独特な雰囲気がKooBeeの大柱を作っているのは間違いないと思います。

デザイナーの個性が出たデザインも好きです。あのデザインは本当に唯一無二だと思うので誇りをもって欲しい。

 

 

冊子全体を通して統一感を去年より出そうと背景の統一を試みたので、1番成功したのはきっと神戸紹介だと思います。

毎年動き出しが早く1年生はついていくの大変だっただろうに、それをまとめあげたリーダー、走りきったチームは本当に凄いです。各ページデザインの色も違っていて、一人一人のセンスの良さが光ってます。

営業部の明るい真面目さには個人的にめちゃくちゃ感謝していて、企業広告もさらにとってきてくれて誰も根負けしないところがいい部署だなと羨ましくありました。神戸紹介だけでなく、各広告も営業あってこそです。デザインにきっかけと出会いをくれてありがとう!

 

そして私が3年間関わった学部は本当に納得する形で終われました。去年は自分がスランプから捻り出したので工夫する時間が無かったのですが、今年は工夫する時間が多くてデザイン的にも企画的にも充実してました。企画が最高に好きだから見てほしい!!!

突然呼び出して撮影してくれるカメラ部さんほんとうにありがとう。表紙コンペも含め、絶対的な信頼をしていたので常に甘えていました。写真展までいろいろありがとう…カメラ部はレスポンスが常に暖かくて幸せでした。

 

同じく3年間関わった団体ページは今年念願の企画ができて私的には一押しポイントです。今年は去年に引き続き、デザイン面での統括をさせていただきましたが、入れ込み・索引・チェックを1人で泣かずに作れたのは去年の反省(ギリギリで作れず、深夜に人を呼び出して泣きながらつくった、ミス多かった)のを踏まえました笑

3年生は全員団体担当3年で、この2人が頑張ってくれるから私も同じくらい頑張れました。また今年は冊子とは違うけれど、団体図鑑の検索リニューアルができて個人的にめっちゃくちゃ嬉しかったです。エンジニアも団体チームの子もありがとう!

 

美男美女やスナスナの人気企画に加え、今年は豆腐ページや男だけの企画ページなどちょいちょいおもろいページが挟まれてるのもお気に入り。KooBeeって神大生のために!を考えているけど、あくまで非公式なので、こういうエンタメ性が強い企画こそ「らしさ」があると思います。

 

中企画は大変なチーム多かったと思います。だからこそ企画内容が、1年生が考えたと思えんぐらいおもろい。WEBもそうですが、各ページのクオリティが高い!ポテンシャルに本当に驚かされ、脅かされた…!

個人的にはもっとフォローを手厚くしてあげたかった悔いがあります。1年生とは年も4歳離れてるので、もはやかわいい子供たちでした笑

うるさいオカンやったと思います笑

 

そしてKBWBページを含めて、PRありがとう!PRの委託物をこの3年間1番多く作ってきた自信がありますが、すでにラフ書いていたりしっかりとつくりこまれていて、難しいものもあった分やりがいがありました。新歓祭がないという誰も予想できなかったゴールに、冊子管理にいろいろ奮闘してくれてありがとう。広報の形は様々だからこそ、PR部がKooBeeに必要な意味はひしひしと感じます。そして後輩達が配布にむけいろんな考えを今でもずっと巡らせてくれているのにワクワクしています!引退だけど、いくらでも協力します!

 

 

最後に、冊子統括を1年間やらせていただき、KooBee2020 vol.11を刊行できたのは、沢山のお力添えあってのことでした。

常に、私が今好きなことをやれているのは誰かの頑張りがあるからだと思ってデザインや仕事をやっていました。

改めて本当にありがとうございました。

 

冊子統括やリーダーをやる中で、ものすごく辛いことは沢山ありましたし、思い出すだけで涙が自然と出てきてしまいます。

 

「時々休憩をとってでも、KooBee2020をつくりあげて配るまでは終わりではないので、そのために私を助けてください。

 

私も誰かのために、冊子のために頑張る人のことは精一杯助けるので。」

と前ブログで話したように沢山助けられました。その分、あの時の自分のできる精一杯の助けは全うできたと思います。ひとつひとつの頑張りが、成果となってつもり、冊子という形になっています。みんなを褒め、自分を褒めてあげたいです。

 

KooBee はまだまだ続きますし、後輩達はこの先の見えない中、冊子配布などに一所懸命だと思います。私は出来る限り、協力するので声かけてね。

 

みーんな!冊子発行お疲れ様でした!!